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絶望するにはもう遅い

  クレヨンしんちゃんの映画を見た。 設定とか観客の年齢層とかで映画館から出た時に人が居なかったら片膝を付いていたかもしれないなと思うけど、粗方良い映画じゃないかなと思った。 オチに関しては今回の映画に出てくる敵の男性の設定からして妥当な落とし所じゃないかなと思ったけど、同時に文系は作者の気持ちを考えてろよという考え方が大好きな人々のせいで荒れそうだなとも思った。 実際 X ( ぼくは基本 Twitter と呼ぶけどそれはそれとして X という呼び方が馬鹿みたいで好きだ ) でも今回のしんちゃんの映画は弱者男性が出てきている!酷い!という言論が見受けられた。 納得行かない人もいるだろうなとは思ったけれど一つ引っかかる意見があった。 しんちゃんの映画を見る人は大体子供と一緒に観に行く人が多くて、それは強者だというものだ。 子供がいるから強者というのはどういうことだろうと思った。 今の日本はとにかく子供を育てるのはとにかく大変だということは独身のぼくでも分かる。 まず出産にも金を取るし食費光熱費その他諸々さらには学費も金がかかる。 さらには体力も使う。 体をとにかく動かさないといけないことが多い。色んなところに出かけて体験させてあげるという事にも体力は絶対に必要だ。 子供の事を思えば …… という気持ちで頑張っている親も多くいるだろうが、自分には出来るか自信がない。 会社でも制服代が …… とか幼稚園が …… という悩みをさらっと言っている人はいるがそれは決して軽い悩みではないと思う。それを見ているとどうしても子供がいるから強者だとは思えない。 弱者男性だと思い込んでいる人は子供がいる事自体が強者だと考えているようだけど、実際に自分がその “ 強者 ” 側になった時に心の底から強者になったと言い張る事が出来るだろうか? 今の日本は自分の大変さで追い詰められてしまい、他人の恵まれている所を見て妬んでいる人が本当に多いと思う。ネット上だけならまだ声のうるさいマイノリティだろうと言えるのだけど、最近は普通に現実世界でも見受けられる。 正直絶望的だと思う。 こうなるまで放置していたのが悪いのか、そもそも誰が悪いのかぼくには判断出来ない。一人一人の絶望が遅くて、早くどうにかしなければとなるのが遅過ぎたのだと思う。 しんちゃんの映画でこんなに暗い気持ちになる事あるのかよと思った。

狭ぇな

住んでる町で唯一の皮膚科に行ったら普段愛想が悪いドラッグストアの店員がいた。 別の日にまた皮膚科に行ったら仕事先にいる愛想の悪い警備員がいた。妊娠しているようで、その日から少し経って見なくなった。 ぼくはこの出来事が嫌だなと思った。世界が狭過ぎる。 ドラッグストアの店員と会うのはまだ分かる。自分の家から歩いて 3 分も無い所で働いているのだから生活圏が同じでもおかしくない。 でも仕事先は車で 40 分ぐらいかかるし、隣町だ。そんな所でしか会わない人と生活圏が被るなんて狭過ぎるにも程がある。 しかも名前すら知らないのに、その人のパーソナルな情報が分かってしまうのが嫌なのだ。 田舎に住んでいるとそういう世界の狭さが見えてしまって辟易する。本当に嫌だ。そもそも相手は自分に気付いてないどころか顔さえ覚えられてない可能性もある。そんな人の事を知る事になるのが嫌だ。ストーカーと同じだと思う。 それに比べると実家の周辺は知り合いと会うことが少ない。実家から歩いて 20 分くらいで東京 ( とはいっても葛飾区だが ) や千葉に行けるので、わざわざここをウロウロしてるような知り合いはいない。むしろ探してしまう時もあるけど、まず会わない。人が多いし色んなところに行けるからだ。 とても心地良い。開放感がある。そのために実家に帰ってる所もちょっとある。 自分の知ってる人の情報が入ってこない事はとても心地良い。そもそも地元に知り合いがそんなにいないということもあるけど。

書くことが無い

  サボってたとか忘れてたとかではなくて書く暇がなかったので書いてなかったと書くと、タイトルと違って書くことありそうじゃんと思われるが、基本的に書くことがない。 何をした、とか何が起きたというイベントが無い生活を送っているせいで書くことがなくなってきた。まだ全然書いてないのに。 始めた時は書きたいことがたくさんあるぞ〜と思っていたけど驚くほど無かった。ぼくは見切り発車をよく行う。 学生の頃からフィリピンの人とリモートで英語の勉強をしていて、最近は何かあったか?仕事はどうか?という質問をされるのだけど、いつもいや〜普通の 1 週間ですねとかちょっと忙しかったかもねという返しを英語でしている。 本当は何かしているけどそれを隠してるんじゃないか?と思われてるんじゃないかという気になるけど、本当に普通の日常で仕事に行って家に帰ってというルーチン行動しかしてない。 埼玉に住んでいた頃はこうじゃなかったのにな …… と考えてからふと思ったことがある。 ぼくは埼玉にいた頃から変わってないということだ。 前のぼくは新しい物が好きだった、と自分で思い込んでいるだけで実はそうでは無かったということだ。 何かをネットやテレビや雑誌で見て面白そうだなと思ったら行ってみたりやってたのは、そういう事が気軽な気持ちで出来る環境にいたからだ。 今は面白そうなものを見聞きしてもそれを体験するには少し大変な環境におかれている。 だからしたいと思った時に面倒臭さと天秤にかけて面倒臭さが優って家で寝ているのだと言うことを考えたのだ。 そんな気持ちでは何も書くことなんか起きる訳がない。自分で行動していないのだから。 とりあえずこの文章を投稿しよう。

Twitterの話

  Twitter の API の変更のタイミングでこういう話をするのもなんだろうなと思うけども、 Twitter の話をしたいなと思ったのでする。 ぼくは Twitter がとても好きだと自信を持って言える。 2010 年から始めているのでもう 13 年近く続けている人間が、逆に嫌いな理由が無いと思う。 赤ちゃんが制服を着て学校に行くまで Twitter 続けていると色々な思い出がある。 友達と変なリプライをしまくっていたらそれを見ていた相互フォローの女子高生に面白いと言われたこと ( 今はその方は結婚していて、アステカ神話の神の絵を描いたりしていました ) や、やっぱり友達とある人の真似してたら本人が来て楽しそうで嬉しいというリプライをくれたこと ( あの時はありがとうございました ) や、変な人とバトルをしたことやいつの間にかフォローが外されてて悲しかったことなど、とにかく色んな事を体験した。 15 歳の時から 28 歳までなのでもう人生の半分近くを Twitter と共に歩んでいるので、思い入れも大きくなる。 Facebook や mixi のような SNS にはハマらなかったのに Twitter はどハマりした理由は 140 文字制限なのが大きいと思う。 140 文字という限られた中で如何に相手に伝わるかを考えてツイートするというのがとても楽しかった。 この情報は入れる、これは削る …… というのを繰り返すのが良くて、自分の意見をツイートする時はこうでこう!というのをはっきりとさせ易く、自分の思考を整えるのに便利だった ( その分誤解を招くような表現をしてしまうこともあったが ) 。 もっとも、最近は同じことばかりツイートしているので、あまり説得力は無いかもしれないけれども。 それゆえの弊害だが、 Twitter に慣れすぎて卒論や修論を書く時は若干苦労した。 Twitter と違い、どうやるのか、どうしてそうするのか、どうしてそうなるのかという事をとにかく情報を丁寧に書かなければならないため、 Twitter の情報の省略の癖が付いてしまっていて少し大変だった。長い文章を書くのも好きだったから、あくまで “ 少し ” だけだ。 最近の Twitter の混乱のせいで Twitter に代わる “ 移住先 ” を探しているユーザーが沢山いるが、ぼくは Tw

僕はこう思っています。

  僕はこう思っています ブログの一人称を僕にしたい。 でもなんか違うよなと思って出来ない。 普段の一人称は俺だし、会社のメールでは私にしている。 俺といえば中学 2 年ごろまでオ ↑ レ ↓ と発音していたのを先生に指摘されて今の発音に直した思い出がある。オ ↑ レ ↓ は幼稚園児とかの発音だと思うんだけど中学になるまで何で誰も言ってくれなかったんだと思ったし、そもそもなんで俺も俺の発音のおかしさに気付かなかったんだと今でも思っている。 話を戻すが、俺だとぶっきらぼう過ぎるし私だと気取り過ぎてるということでブログでは使っていない。一人称は自分にしていたが、なんとなくしっくりこない。自分という一人称を使ったことがないからだ。 僕だったら幼稚園の頃使っていたので全然問題無い。なんならぼくにしても良いと思う。幼稚園の頃ならひらがなで発音してたので。 僕という一人称の魅力として柔らかさがある。ある程度厳つい話をしても僕という一人称だったら許される気がする。読んでいる人もまさか僕という一人称でこんな話をするわけが …… となる。実際自分はなる。 ということでぼくはブログをぼくという一人称で書いていこうと思う。ぼくはこれから厳つい話もしていきたいからだ。それでは。

飽き性

  3 回目にして実はもう書くことがあまり無い。 ブログをやるぞ!と思って気合入れて始めたのにそもそも書きたいことがそんなに無かったってそんなことあるだろうか? いや、そもそもブログは日記なのだからこうやってテーマを決めて書く方がおかしいのかもしれない。 これを公開する頃には書きたいテーマが増えてることに期待しようと思う。 何かを始めてもすぐに飽きてしまう。 ブログもこれを公開する頃には飽きてるんじゃないかと思う。 飽き性なのには理由があるんじゃないかと考えてみると、元来の性格と、とにかく完璧にやらなきゃいけないのでは?という先入観があるからじゃないかと思う。 こんなレベルじゃダメだ、まだダメだ、わ〜〜〜となって離れてしまってそのままフェードアウトしてしまうというものだ。 好きだった対戦ゲームをやらなくなるのは後者だと思う。続けても自分が納得出来る強さになれないから止めてしまう。 ただ自分は飽きっぽいなと思っていたのだが、思い返してみるとバイトは院生時代含めて 6 年はやってたし、部活も中高で 6 年間吹奏楽をやってたし今の仕事も 5 年目になるし全然すぐ辞めてないことに気がついた。 何故だろう?と考えてみたら長く続いたものってそこまで好きじゃないんじゃないかという仮説が浮かんだ。 バイトは本当に全然好きじゃなかったけども、辞めるための手続きとか新しいバイト先見つけるのも面倒だから続けてただけだ。今の仕事も同じだ。 部活に関しても 6 年間吹奏楽をやってたから音楽とか楽器を演奏するのは結構好きだけど、賞を獲りたいとか上手くなりたいとかは特に無かった。貰えるなら欲しかったけど。 実際、部活を引退してから中学もそれなりに調子良くなったらしいし、高校も引退してすぐの代で金賞を取るくらいになったらしい。これに関してはごめんなさい。 気を張ってないから上手くやらなければいけないと気を張ることが無くなって長く続けられるのだろう。ただそれが良いことかは分からない。 好きでも無いことを長く続けても褒めてくれるのは周りだけで、自分で自分を褒めようとは思えないからだ。 とりあえずこのブログは好きだけど長く続けられる最初のものにしたい。次が更新されないかもしれないけど。

Twitterを1ヶ月辞めてた

  Twitter を 2023 年の 3 月の上旬から 4 月 1 日まで辞めてた。 辞めたというのはアカウントを消していたので文字通り辞めてた。 辞めた理由としては Misskey という SNS が Twitter 上で話題になったのが発端だ。 Misskey というのは 2014 年から運営されている分散 SNS の一種だ。分散 SNS というのは、 Twitter のように一つのサーバーがある訳ではなくユーザーが独自にサーバーを作ってそれに集まるという仕組みらしい。 詳しい人がいたら教えてください。 Twitter で Misskey が話題になってる時は、与謝野晶子がサングラスをかけているスタンプや、レターパックで現金を送れ!という文章を普通の投稿文に対して送るという遊びが流行っていて面白すぎる!というツイートが大量にされていた。 全く面白くない。 ユーモアが無い人間がただ内輪ネタを強要してるだけだ。 ただ新しい SNS に触れているだけの人間に内輪ネタを浴びせる人間が面白いわけがないのだ。 でもそんな SNS を面白がって多くリツイートしている、ちょっと仲良いかもなと思っているフォロワーがいた。 なのでこんなもんなんも面白くねぇだろ!こんなもん面白がってる奴いたらブロックしろ!と勢いでツイートしたら本当にブロックされてしまった。 その時「俺は何故人の好きなものを否定してしまったのだろう、もう傷付ける事しかできないのなら発信するのを辞めよう …… 」と思ったから Twitter を辞めた。 Twitter を辞めてからはやる事がないので本を読んだ。買っただけで積んでいた本が結構あったのでそれを消化していたという感じだ。 Twitter を再開しても辞めてた前より読んでいる。 あとはハゲた。冗談じゃなく後頭部の一部がハゲた。円形脱毛症だ。円形脱毛症はストレスで起きるという話があるが、皮膚科の先生曰く自分のようなアレルギー体質の人間は円形脱毛症が起きる事があるということだった。 とても安心した。 Twitter が好きすぎてそれを辞めたストレスで禿げたのか?とちょっと思ってたからだ。良かった。 俺を安心させてくれた皮膚科の先生は、牧場で牛乳を入れておくようなタンクに入った液体窒素を紙コップに注ぎ、細長い綿棒を窒素に浸したあと俺のハゲた部分に何度も押しつけた。